#パクリますた(タイトル)赤い彗星が憂えている。
>「うーん。わかんないや。」それね、「見守る」という言葉を示したいと思う。
放任ではない、良いことも悪いことも自ら気付かせる目的を持って諭す。
気付くタイミングを失った、後戻りできない、自分を見失ったと見たときに介入と。
そう、Edwow Mass の言わんとしてることはそゆことと思う。
そのタイミングは、
子供の数だけある
ってのがムズなんでしょうね。
でも、介入でケガさせ、「自分は悪くない」は、明らかに常軌を逸している。
何かって、それはこちら。
【溶けゆく日本人】“自子中心”の保護者 不安が生み続ける連鎖
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/household/120498/自分の子を中心にって別に問題ないと思う。
親なら自子中心。
ただね、親の責務として自子中心に「社会との関わりをシッカリ教える」と言うことでの話ね。
自己中心の子供が生まれるのはその責務を果たしていないためと。
と逆説(?)に考えると、
「『自子中心』の親が『自己中心』の子供を生む」
が納得できる。
こうした学校に対する「いちゃもん」の根幹には、自分の子供のことしか考えず、ほかのことはどうでもいいという発想がある。小野田教授は、そんな考え方を「自己中心主義」ならぬ「自子中心主義」と呼んでいる。
エコノミックアニマルと揶揄された時代に育ち、権利と義務(責任)を家族という関係の中で学んでこなかった。
核家族とか言うモノで世代間の関わりを目にしてこなかった。
敗戦による価値観の崩壊が、すべてを間違いと捨ててしまった。
良きものはどこに行った。コミュニケートすべき社会はどこにあるのか。
...等々。
小野田教授は言う。「今の世の中は、こぶしを振り上げやすくなっている。昔もこぶしを振り上げる人はいたが、一方で袖を引っ張ってくれる人もいたのだが…」
地域コミュニティが機能しなくなったと言うことか。
受け身でなく、ダイナミックに、コミットせよと私は訴えたい。
それは、
「まず、話し合おう」と提案している。トラブルは相手がSOSを発し、それをキャッチできた好機と考えれば、「話し合う」ことはできるはずだ。
に通じるように見えるが、そうではない。
#話し合い、議論できるなら見込みはあるが、たぶんその余裕を無くしていよう
#そんなものに対するのはかなりの余裕、度量を持たねばならぬ
#どれだけの者が出来ようか、出来ればいいなと期待はするが...
私はある意味諦めている、そう言う大人の反省(再教育)得るのはムズやろうと。
否、それでもその中の多くは自覚しているとは思っている。
私は未来に期待しているのや。
そう、子供たちに。
議論せよ、コミットせよ、まともな大人はいるのだからと。
社会に関われ、子供たちよ。子供と言えど人格は同じであることを認識せよ、大人たちよ。子供とバカにせず、素朴な疑問に応えてこそ、
清濁併せ呑む、
水清ければ不魚住と言ったことがどういうことか諭してこそ、大人と言える。
経験はそこに生かしてこそやから。
まともな大人は...などと言わねばならぬほど(社会は)政治の腐敗を招いている。
とは言え、
まだまだ希望はある。大いにある。あるよね...ねえ...頼むからあってくれぃ。
それはともあれ、おめでとうございます。