前もって断っておくが、トンコさん、牛男さん、の主張を否定するものではありません。
また、
被害にあったのはあなたのせいではありません。
あなたにはいかなる責任(落ち度)もありません。これを否定するものではありません。
私の所感は違う
視点で述べているつもりです。
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性犯罪と「自業自得」論(1)
http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/39944362.html#(5)まであります。関連記事あり
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【政論探求】「反基地」勢力が叫ぶいかがわしさ他を取り上げている
#「「住民自決は軍命令」と信じて疑わない体質と共通する情緒的反応の弊害」には強く異議あり!
花岡氏の文章は、性犯罪被害者への「自業自得」論のスタンダードなものであり、それはつまりセカンドレイプに他ならないと思う。
#14歳少女に振り回された?に至っては激しく怒りを覚えるNEeDS
#(5)に松尾光太郎氏のTBあるが、内容に異議あり
#仮定に基づき断裁している点で論に矛盾あり同意できん
#トンコさんや牛男さんが訴える典型的な例であろうか「弱者叩き」の背景にあるもの
http://blogs.yahoo.co.jp/otiani/53701052.html性犯罪が起きたときに、「被害者にも落ち度はなかったか」と、客観性を装ったかのような指摘をする人間がいる。結論を先に言うと、「なぜ被害にあった人間の落ち度をあら探しする必要があるのか」これに尽きる。これは、「いじめ」が問題になったときにも必ずといっていいほど出てくる論調だ。「いじめられる子にもいじめられる理由がある」というもの。ならば、理由があればいじめてもいいのか。被害者に同情するフリをして、道徳論を語る。これが「弱者叩き」の常道のようで、残念ながらそのような構造は、最近起こったことではなくて、いつの時代、どんな場所でも行われてきたことだ
弱者叩きは私の忌み嫌うものであるが、
その指摘「なぜ被害にあった人間の落ち度をあら探しする必要があるのか」の意味を私は、
危機管理の甘さへの警鐘としての検証作業と答えよう。
これ以上悲劇を産まんようにとの。
少なくとも私が弱者に対して言及するときはそうである。
ただ、センセーショナルにともすれば弱者叩きと取られやすいこともあろう。
加害者糾弾、法の不備の議論と一緒に論じた場合、特にそのきらいがある。
加害者が弱者のうっかりに乗じ、即ちそれが加害者の人としての精神的弱点(?)と重なるとき、それは加害者弁護と重なり、同一視されてしまうが故と考える。
本来、弱者に対し、如何に考え対処すべきかの議論上ものであろう。
そう、問題の論点が違うと言うことや。
よりよき社会であるため(社会の状況)からの議論としては同じであるものだが、
例えば、落ち度はなかったかは、被害者(の状況)からの危機回避議論であり、
例えば、法の不備は、加害者(の状況)からの危機回避議論なのだ。
弱者は如何に備えるか、社会として如何に守るか、
加害者はなぜ法を犯すに至ったかを検証し、双方向からバランスを取ろうとするものと私は考える。
それを見失ったとき、「落ち度は」などと指摘すれば被害者が悪い(感情的には100%悪いと言われたと)と誤認されてしまうかも知れない。
無知は時に悪となる。
#事例は違うが
ここにも掛かる
#日常的には「これだから素人さんは困る」というやつね
知らなかったんだから罪はないと断じられるとは限らない。
なぜなら、
社会の暗黙の了解を知らずして踏み込めばその社会の迷惑となることがあると言うこと。
「真摯に受け止める」ことで社会に許されるとは言え...
無垢なる赤ちゃんが手を伸ばし毒蛇に噛まれる。
さて、どこに、誰に、罪があるのだろうか。
赤ちゃんが少しは社会を知った子供ではどうか。
大人であったらどうか。
毒蛇が人(無法者)であったならどうか。
安全な社会にするためにと置き換えたらどういう議論になるだろうか。
無法者は(ときに善良を装って)社会にいるのである。
一言余計なことを言えば、
児島の仙人さんの主張は誤認されやすい言い方と私は感じている。
論点がどこにあるかが読み取り難いと言えようか、人のことは言えんが^^;
非表示になった記事に何が書かれていたか不明やが、
トンコさんや牛男さんが加害者糾弾(?)に振り子が振れたとき、仙人さんはその対局に振れてつまり、アンチテーゼとして述べたのだろうか。
謂わばディベートとして読み取るのが良いのではないだろうか。
阿檀さんが「ここはあんまり静かでなくて、キツネとかが通ります」
それを受けて、きむろみさんが「けものみちなんだ」
言い得て妙このお二人のコメントの前にうーんと呻ったNEeDSです。
議論は理を以てされるべきであり、議論によって社会は理に収束していく。
そうでありたいと思うところから。
>弱者叩きは私の忌み嫌うものであるが、
>その指摘「なぜ被害にあった人間の落ち度をあら探しする必要があるのか」の意味を私は、
>
> 危機管理の甘さへの警鐘としての検証作業
>
>と答えよう。
>これ以上悲劇を産まんようにとの。
その視点は分かります。
しかし、危機管理としての自衛を公の場で論じるのは平時に行うべきことであって、事件がおきた時に、被害者の目の前(あるいは被害者の読める場)で言うのはあまりにデリカシーに欠ける行為だろう、というのが私の認識です。
事件の発生を奇貨として危機管理を諭すのは確かに有効です。しかしそれは、家の中で、自分の家族に対して内々に行うものではあるまいか。
以上は、一般論としての本問題への私の意見。かいつまで言うと、「時と場所を選んでモノを言うのが良識ある大人の行動」だろうと。
なお、花岡記事に関しては、同じ産経が報じたこちらの記事
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080216/trl0802161050000-n1.htm
に、産経の欺瞞を強く感じるのであります。