問題はそのコミュニケーション、
正確に言うとコミュニケーションを取る
ゆとり があるかです。
いじめが隠れて行われるとか陰湿だとか...いろいろ言われるがその言は違うだろう。
いじめ自体の内容が昔も今もそう変わったわけではない。
変わったのは自浄作用が働かなくなっていることと言えよう。
その要因はゆとりが無くなってきたことではないかと考える。
あるいは安心感と言い換えられるか...
つまり、子のレベルに於ける安心感は他によって護られているに依ること故だ。
愛されているか、行き過ぎを止めてくれるか、話を聞いてくれるか、...叱ってくれるか...
言い方はいろいろだが、「みる」者がいるかだ。
それは「子供の意見を聞いてくれ」「親と先生が仲良くしてくれ」に現れている。
如何に読み取られていないか子の叫びであろう。
「そんなことを望んでるんじゃない」
大人が責任のなすり合い的な討論に対する指摘と私には見える。
妻は子に、もしいじめられたら、
「登校拒否になりなさい。誰が何と言おうと味方や。戦う。」
と宣ったそうな。
まぁ、そんなことにはなりはせんやったが、
子供同士、親と子、親同士、親と先生、コミュニケーションが取れてることが子の安心感に繋がる。
子供だけが、親だけ、先生だけでコミュニケーションはない、当然やが。
それがないと指摘しとるんやないかい。
地域でもとかいろいろ言うが、その前にって指摘しとるんやないかい。
担任の先生曰く、
「私がクラスを持ってこんなにスムーズにいったことは初めてです。ありがとうございます<素」
#授業参観後の懇談でのこと
#長男、長女が多いせいかどうか、皆さん活発な発言だったそうで...
問題が起きなかったわけでは無い。が、コミュニケーションが取れていると解決も図りやすい。
勿論すべて解決とは言わん、少なくとも子は安心できると言っているのだ。
何故先生は素にありがとうと言ったのだろうか。
想像にしくはないが、その背景にあるものは...ある校長に個人的に訊いたことがある。
つづく。
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