理解する、わかるってどういうことなんだろう。
言い換えれば、正しい判断が付けられることだろう、と私は考える。
判ったような気になるという、思い込みってのもあるが、それは理解ではない。
前にも書いたが、
正しい判断は、正しい情報と正しい分析あってできるものや。
何のために勉強するのかは、社会の一員として必要な「コミュニケーションを取る」ため。
たとえ無人島にあなた一人生活するにもその環境とのコミュニケートできねば生活はできぬ。
#一人いるから無人島ではないは無視してくれ
情報を如何に得るか(情報の得方)
その情報は如何なる意味を持つか(分析の仕方)
それを如何に利用するか(活用の仕方)
それらの方法を学ぶことが肝心であり、
それは、社会の一員となる目的、モチベーションと共に欲求されてくるものやろう(必要を感じること)。
逆に、必要を感じずに勉強するってのは、させられるもの(強制)として苦痛となるんやないか。
#あたしゃ、今は好きな歴史なんか苦痛やった、年号なんかなんの意味があるんやと
#数学は好きやったけど、たぶん嫌いなやつは記号だ公式だとかで苦痛やったろうな
知識も大事ではあるが、単に知識を覚えただけでは勉強したことにはならない。
社会に出てその様な知識は役にたたんのよ。
学校で学ぶ知識は基礎であり、基本は応用することで利用できるものだから。
そこにテストで幾ら良い点数取ろうが実社会でものの役に立たんと言われる所以だ。
点数で優劣を図るなど滑稽なことはない。
点数付けるなではない、
みんな一緒、協力して行うとか平等などと言った意味として、例えば運動会の競争競技でみんな1等などのように、
ヒューマンドラマとしての演出なら兎も角、個性尊重無視という誤った認識を招く愚劣なものやないか。
勿論、暗記力ではなく、どれだけ理解したかの確認であると認識して行うのであれば別であるし、テストとはそうやないとイカン。
それは、
他人との比較ではなく、自分自身との比較。
スポーツでよく言われるでしょ、どれだけ頑張ったか、自分との戦いなのだ、テストってのは。
「楽しみました」って最近よく言うが、どうも不自然な気がするが(オリジナリティ)、
やった、頑張った、自分を褒めてやりたいと自然に出る言葉がすがすがしい。
目標/目的を持って、自分に挑戦し、自分の精一杯の結果を出す。
それができてこそ勉強。自分のスキルアップなんや。
社会で働くことの充実感は、自分のスキルを以て、
目標/目的を持って、社会に挑み、自分の精一杯の力を以て成果を出す。
#ビジネスの世界もスポーツマンシップ
自分のスキルアップが何に応用できるか判らねば目的の持ちようがない(実用)。
不思議と思う気持ち、何故なのかと探求心、興味がなければ目的の持ちようがない(感性)。
この2つのどちらかもしくは両方のイメージを持つことが肝要と考えるわけや。
だからぁ、理解度を深めるというのは、
つづく。
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なんというか「感触」の部分、勘ではない実感の部分・手ごたえと言うかそこらへんの楽しさがもう少しわかるようになれば爆発的に気持ちも上がるのでしょうね。
収入の稼ぎ方にはいろいろあるけれど、いわゆる富裕層の「お金」の使い方は、(一部だと思いたい)日本人がいかにお金を使うのが下手なのかを
アピールしているように見えます。